恥ずかしい話

恋愛とか友人関係とかおよそ人の間にある関係は、相対的で、そして帰属なんじゃないかとぼんやり。


院に行くと決めて、その選択肢は決して間違っていないと確信しているのだけども、周りの人たちが就職していくのを見ると何か取り残されたというかそんな感じがして、その感覚は、ちょっと言葉はおかしいかもしれないが、帰属意識の場所がもう少しで異なってしまう、ということなのだと最近気づいた。
どれだけ悲しんでも2009年の4月には多くの同年の友人・知人が新しい場所で(自分も含めて!!)スタートを切って、それは喜ばしいことなのだが、「仲良し」という言葉は現在形から現在完了形。そして段々と過去形で記述するようになるのだろう。当然といえば当然過ぎることで、もともと帰属があった上での仲良しだったのだから、それは卒業ということで「仲良し」帰属が突然掻き消えるわけではない(決して帰属するのは「大学」ではない。断言できる。)けど、各人又新しいコミュニティに強制的に突入していくことで緩やかに、確実にコミュニティは冷えていくのだろう。
もちろんそれは高校とか中学とか、果ては幼稚園の頃から誰もが体感するものなのだけど、自分にとって今のコミュニティの居心地のよさは格別で、そして中学は誰にも学校を変わることを言わなかったし、高校はコミュニティを自分できって生きてきた僕としてはコミュニティが自然死する瞬間に立ち会うのは初めてで、それがものすごく恐ろしいのだ。



「絶対」なんて言葉は多分誰も信じていないし、信じるべきでもない。「近代」だとか「ポストモ・・」とか言い出すまでも無く。

ただ、「絶対」という言葉を比較的長続きさせて、棺おけに入るまで保つために・自分の意識というものが生きている間まで保持するために必要な力は、孤立する力なのだろう。一人で考え、実行し、完結させて、そして満足する力。自己完結。自己満足。目玉焼きの黄身がないと白身がないようなものだ。ちょっと違うか。


逆説的だけど、孤立する力があって初めて関係を作り出せるし保ち続けられるのだ。そう思いたい。