恥をかきながら

勉強すること。

昨日理系の友達と電話していて話したことなのだけど、大学も4年生になると、普通は(この場合の普通というの学部の講義実験をこなすことを指す)研究のフロンティアに一応立つことが出来るとのこと。

だから段々と実験も個人個人別のものをやっているみたいだ。みんなで同じ実験を、「正しい」数値が出るまで繰り返すっていうことがこれまでの実験だとすると、正反対のことをやっていることになる。友人も最初は戸惑ったらしい。

果たして自分たちはどうだろうか。昨日のゼミで白石先生が嗜めていた事に、一つの答えがあることを前提としてはいけないということ。まあこう言ってしまえば当然で青臭くてわかりきったことなのだけど、実際に僕が実践出来ていたかといえば、心許無い限り。
プラトンルソーデューイボードリヤール漱石ギデンスイリッチペスタロッチラカン鷲田清一ブルデューソクラテスデリダ…fashionとして利用してきた、というよりそれしか出来なかったのではないかと思う。中二病

何故?

勿論、現在の受験勉強が…という言い方も可能だと思う。ただ、それよりもっと深い部分があることもあるのじゃないだろうか。
うまく場合分けして言えないのだけど、まねびと創造?妄想?の間は対立しているのか。一体化しているのか。僕は全く別に見えるんだけど、根底でつながっているというか、今はそんな感じがしているのだけどどうだろうか。

どうやら本郷も時間があるみたいだから、これからだらだら考えていこうと思う。










こんな駄文最後まで読むなんて変人ね。